南海ギャラリー
暮らしの中の南海化学
昭和初期から当社で製造販売されていた蚊取線香や殺虫剤、衛生薬剤などのラベルやチラシが現在も色鮮やかに遺されています。
当時のハイカラなデザインや時代を象徴するようなキャッチフレーズは現代でも新鮮な感動を与えてくれます。
当時のハイカラなデザインや時代を象徴するようなキャッチフレーズは現代でも新鮮な感動を与えてくれます。
HISTORY 南海化学100年史
創業物語 | 独創の軌跡 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
第1章 起業 |
第2章 離陸 |
第3章 試練 |
第4章 堅実 |
第5章 克服 |
第6章 改革 |
第7章 挑戦 |
創業物語
先人たちの進取の姿勢と強靭な意志
近代国家へ向けてようやく歩み始めた明治6年。
現在の和歌山県有田市で、南海化学創業者の一人、小泉米蔵が田中善左衛門の次男として誕生した。
田中家は、江戸時代から地元の殖産振興に貢献してきた名家であった。
米蔵は、その後小泉家の養子となり、和歌山中学に入学。
明治29年、大阪府堺市に硫酸晒粉株式会社が設立されると、実の兄である田中善吉が同社の支配人であったことから、兄の下で働きながら晒粉や硫酸などの製造法を学び、和歌山や堺の人脈も広げたのである。
現在の和歌山県有田市で、南海化学創業者の一人、小泉米蔵が田中善左衛門の次男として誕生した。
田中家は、江戸時代から地元の殖産振興に貢献してきた名家であった。
米蔵は、その後小泉家の養子となり、和歌山中学に入学。
明治29年、大阪府堺市に硫酸晒粉株式会社が設立されると、実の兄である田中善吉が同社の支配人であったことから、兄の下で働きながら晒粉や硫酸などの製造法を学び、和歌山や堺の人脈も広げたのである。
明治33年 硫酸晒粉(株)時代
米蔵は創業前までに、2度の渡米経験があり、西洋の文化や発展を遂げる産業に直接ふれるとともに、現地に留学していた同世代の若者たちとも親交を深め、知識を吸収し、化学工業が産業の中核を担うことを実感した。後の会社設立に、大きな影響を及ぼすことになる。
明治37年、日露戦争が勃発。政府は殖産興業の拡充と軍政の強化を図り、産業界に特需と起業ブームが起こった。
当時、和歌山では軍服などの需要増で、紀州ネル製造が隆盛を極めていた。綿ネルの加工技術は、手織りから力織機へと移り、なかでも捺染技術は一大発展を遂げていた。
この捺染の前工程で晒粉による漂白が不可欠であったため、晒粉の需要が増大していたのである。
明治37年、日露戦争が勃発。政府は殖産興業の拡充と軍政の強化を図り、産業界に特需と起業ブームが起こった。
当時、和歌山では軍服などの需要増で、紀州ネル製造が隆盛を極めていた。綿ネルの加工技術は、手織りから力織機へと移り、なかでも捺染技術は一大発展を遂げていた。
この捺染の前工程で晒粉による漂白が不可欠であったため、晒粉の需要が増大していたのである。
明治35年 バンクーバーにて
明治38年、紀伊製材会社を設立した米蔵は、新たな事業を模索していた。
渡米経験があり、内外の事情に明るかった米蔵は、化学会社設立のチャンスが到来したと感じ、とくに堺の硫酸晒粉株式会社で経験した晒粉・硫酸・過燐酸石灰の事業が有望だと考えたのである。
この時代、豊富な水を利用した水力発電事業も育っており、また、和歌山県内の飯盛鉱山で良質の硫化鉱が豊富に産出されることから、硫酸の原料が安価に入手できる見込みがあったことも、起業へと道を拓いた大きな要因であった。
米蔵は、さっそく紀州ネル関連の事業家や地元の資産家に働きかけた。
その結果、地元綿織物業界の大物実業家、北島七兵衛をはじめとする有志が、出資することになった。
渡米経験があり、内外の事情に明るかった米蔵は、化学会社設立のチャンスが到来したと感じ、とくに堺の硫酸晒粉株式会社で経験した晒粉・硫酸・過燐酸石灰の事業が有望だと考えたのである。
この時代、豊富な水を利用した水力発電事業も育っており、また、和歌山県内の飯盛鉱山で良質の硫化鉱が豊富に産出されることから、硫酸の原料が安価に入手できる見込みがあったことも、起業へと道を拓いた大きな要因であった。
米蔵は、さっそく紀州ネル関連の事業家や地元の資産家に働きかけた。
その結果、地元綿織物業界の大物実業家、北島七兵衛をはじめとする有志が、出資することになった。
紀ノ川の綿布さらし
新会社の工場用地には紀ノ川河口の鼠島が選ばれた。
当時の物流手段は船舶が主力であり、紀ノ川では船舶による物流輸送が日常的に行われていた。
また、鼠島にほど近い青岸は和歌山最大の港であり、和歌山~大阪間の定期便があったことなどが工場立地選定の大きな要因であった。
当時の物流手段は船舶が主力であり、紀ノ川では船舶による物流輸送が日常的に行われていた。
また、鼠島にほど近い青岸は和歌山最大の港であり、和歌山~大阪間の定期便があったことなどが工場立地選定の大きな要因であった。
社長には、出資者の一人、北島七兵衛が就任した。
そして、明治39年10月26日、南海化学の前身である南海硫肥株式会社が設立されたのである。
米蔵は、晒粉や硫酸などの生産技術を熟知していたことから、支配人となった。小泉米蔵、34歳の秋である。
そして、明治39年10月26日、南海化学の前身である南海硫肥株式会社が設立されたのである。
米蔵は、晒粉や硫酸などの生産技術を熟知していたことから、支配人となった。小泉米蔵、34歳の秋である。
1.鼠島と2.青岸工場の立地 今と昔
第1章 起業
明治39年~大正13年
(1906年~1924年)
明治39年10月26日。
地元和歌山の綿ネル産業の実業家や投資意欲の旺盛な資産家をスポンサーに、晒粉・硫酸・肥料事業に経験のある小泉米蔵を支配人として、南海硫肥株式会社が設立された。
地元和歌山の綿ネル産業の実業家や投資意欲の旺盛な資産家をスポンサーに、晒粉・硫酸・肥料事業に経験のある小泉米蔵を支配人として、南海硫肥株式会社が設立された。
紀伊毎日新聞(明治39年11月9日)より
綿ネル漂白用の「晒粉」、その原料となる「硫酸」、そして硫酸を原料とする「人造肥料」の製造・販売会社であった。
本社を和歌山県海草郡湊村大字湊1570番地、通称鼠島に置き、ここに南海化学の創業第一歩が印されたのである。
当時は日露戦争終結直後で、戦争景気に後押しされた特需と起業ブームの末期にあった。
しかし、設立と時を同じくして、硫酸・肥料は供給能力過剰により、市況が急速に悪化し、スポンサーたちの中に、将来性を不安視するメンバーが現れ、株の払い込みが滞った。
そのため、小泉米蔵は地元に大きな需要がある晒粉のみの製造・販売とし、減資することを決意。社名も「南海晒粉株式会社」と改称したのである。
本社を和歌山県海草郡湊村大字湊1570番地、通称鼠島に置き、ここに南海化学の創業第一歩が印されたのである。
当時は日露戦争終結直後で、戦争景気に後押しされた特需と起業ブームの末期にあった。
しかし、設立と時を同じくして、硫酸・肥料は供給能力過剰により、市況が急速に悪化し、スポンサーたちの中に、将来性を不安視するメンバーが現れ、株の払い込みが滞った。
そのため、小泉米蔵は地元に大きな需要がある晒粉のみの製造・販売とし、減資することを決意。社名も「南海晒粉株式会社」と改称したのである。
減資・社名変更公告
(明治40年2月3日 紀伊毎日新聞)
小泉は、陣頭指揮を執って晒粉製造工場建設に当たるとともに、職員や工員の募集に奔走した。そして、明治40年7月に設備が苦難の末に完成し、「ルブラン式マンガン法」による本格的な晒粉製造事業を開始したのである。
綿ネルである「紀州ネル」の最盛期、和歌山県では全国シェアの約60%を生産しており、その漂白工程で晒粉が大量に消費されたため、南海晒粉は需要地生産の有利性を遺憾なく発揮して、順調なスタートをきることができたのである。
経営陣はさらなる晒粉の増産を計画するとともに、原料である硫酸の自社製造と、製品としての硫酸販売の可能性にも着目。硫酸製造の原材料である硫化鉄鉱を地元の飯盛鉱山から調達できる地の利もあることから、硫酸製造事業への新規参入を決意した。
明治43年、手狭になってきた鼠島工場より近隣の青岸に用地を確保し、硫酸製造工場の建設に着手。明治44年に工場が完成し、生産を開始した。その後、大正2年に硫酸第2工場を建設。生産能力は月産1,000トンとなった。
綿ネルである「紀州ネル」の最盛期、和歌山県では全国シェアの約60%を生産しており、その漂白工程で晒粉が大量に消費されたため、南海晒粉は需要地生産の有利性を遺憾なく発揮して、順調なスタートをきることができたのである。
経営陣はさらなる晒粉の増産を計画するとともに、原料である硫酸の自社製造と、製品としての硫酸販売の可能性にも着目。硫酸製造の原材料である硫化鉄鉱を地元の飯盛鉱山から調達できる地の利もあることから、硫酸製造事業への新規参入を決意した。
明治43年、手狭になってきた鼠島工場より近隣の青岸に用地を確保し、硫酸製造工場の建設に着手。明治44年に工場が完成し、生産を開始した。その後、大正2年に硫酸第2工場を建設。生産能力は月産1,000トンとなった。
青岸硫酸工場竣工記念(明治44年2月)
大正3年、化学品の重要な輸入元であったヨーロッパを取り巻く第一次世界大戦が勃発。戦時需要も手伝って化学品国産化のニーズと需要量は一気に増大した。
そうした中で、多様な工業用の原料として需要が増大してきていた苛性ソーダは、欧米からの輸入依存度が高く、良質の苛性ソーダはそのほとんどが欧米の電気分解技術で生産輸入されていた。もし国内での電解ソーダの生産が本格化すれば、副産物として、晒粉が大量に生産されることになり、南海晒粉にとって、まさに企業存亡に関わる一大事となる。
このため、先手を打って小泉米蔵は自らソーダ事業への参入を決意し、アメリカ、ワーナー・ケミカル社のネルソン式電解特許を取得。大正5年、ネルソン式電解ソーダ事業会社として、南海曹達株式会社を設立。技術導入と修得のため、正田廉をアメリカへ派遣した。そして、大正7年、宮前村小雑賀に新工場を建設し、操業を開始した。年産生産能力は、苛性ソーダ720トン、晒粉840トンであった。
そうした中で、多様な工業用の原料として需要が増大してきていた苛性ソーダは、欧米からの輸入依存度が高く、良質の苛性ソーダはそのほとんどが欧米の電気分解技術で生産輸入されていた。もし国内での電解ソーダの生産が本格化すれば、副産物として、晒粉が大量に生産されることになり、南海晒粉にとって、まさに企業存亡に関わる一大事となる。
このため、先手を打って小泉米蔵は自らソーダ事業への参入を決意し、アメリカ、ワーナー・ケミカル社のネルソン式電解特許を取得。大正5年、ネルソン式電解ソーダ事業会社として、南海曹達株式会社を設立。技術導入と修得のため、正田廉をアメリカへ派遣した。そして、大正7年、宮前村小雑賀に新工場を建設し、操業を開始した。年産生産能力は、苛性ソーダ720トン、晒粉840トンであった。
ワーナー・ケミカル・カンパニー
ワーナー夫妻来和(大正5年3月)和歌山城にて
南海晒粉の導入当初のネルソン電解設備
戦時景気の恩恵に浴した南海晒粉は、さらに事業を拡大することになる。
大正5年、鼠島に日本除虫菊株式会社を、大正7年には、富山県伏木に北海曹達株式会社を設立。また、大正6年にはわが国初の医療用石炭酸や各種染料を製造する由良染料株式会社の設立に参画。
大正8年、青岸にバレンチナ式硝酸工場を新設するなど、時代の風を的確によみながら、大きく飛躍したのである。
大正5年、鼠島に日本除虫菊株式会社を、大正7年には、富山県伏木に北海曹達株式会社を設立。また、大正6年にはわが国初の医療用石炭酸や各種染料を製造する由良染料株式会社の設立に参画。
大正8年、青岸にバレンチナ式硝酸工場を新設するなど、時代の風を的確によみながら、大きく飛躍したのである。
大正時代の南海晒粉ビル
地場の大企業として誰もが認め、ソーダ・晒粉業界や硫酸業界において確たる存在に発展した南海晒粉は、大正9年、和歌山株取引所に株式を上場した。
当時の和歌山株式市場上場企業は、南海晒粉を含めて、27社であった。
当時の和歌山株式市場上場企業は、南海晒粉を含めて、27社であった。
和歌山杉ノ馬場営業所開設(大正12年)
(写真は昭和4年当時)
第2章 離陸
大正14年~昭和12年
(1925年~1937年)
和歌山における紀州綿ネル産業と同じように、土佐では江戸時代より和紙産業が栄え、発展していた。明治から大正にかけて生産技術の近代化が進み、生産量は全国の20%を占めていた。
そして、原料の三椏などを溶解させるための材料が木灰から苛性ソーダに切り替わり、漂白のための晒粉の消費も含めてソーダ・晒粉の需要が急速に増大していた。
こうしたなか、関東大震災の影響で、大正12年に解散していた土佐曹達株式会社の跡地に、大正14年に土佐硫曹株式会社を設立し、ネルソン式電解設備を建設。代表取締役社長に小泉米蔵が就任した。苛性ソーダ製造設備や晒粉製造設備の建設は、正田廉が陣頭指揮を執った。
そして、原料の三椏などを溶解させるための材料が木灰から苛性ソーダに切り替わり、漂白のための晒粉の消費も含めてソーダ・晒粉の需要が急速に増大していた。
こうしたなか、関東大震災の影響で、大正12年に解散していた土佐曹達株式会社の跡地に、大正14年に土佐硫曹株式会社を設立し、ネルソン式電解設備を建設。代表取締役社長に小泉米蔵が就任した。苛性ソーダ製造設備や晒粉製造設備の建設は、正田廉が陣頭指揮を執った。
正田工場長と小泉社長
昭和2年、日本除虫菊を合併。昭和3年、南海晒粉の取締役会で北島七兵衛が社長を辞任し、二代目社長に小泉米蔵が就任。名実ともに小泉体制となった。同じ年、土佐硫曹を合併し、現在の南海化学の原型となる和歌山と土佐の生産体制が出来上がったのである。
昭和6年、満州事変勃発。外国品の輸入が阻止されて輸出が伸張し、国内産業が大きく振興した。当社もこの時期に研究開発に重点を置き、次々と製品の開発に取り組み、活発に事業を展開した。
小雑賀工場では、新製品「クロルピクリン」「四塩化炭素」の工場増設とその後に続く新製品の研究開発・生産体制の確立を目指した。これらの中心的役割を果たしたのが、昭和2年入社の村井定男をはじめとする若手技術者たちであった。村井は入社8年目の若さで小雑賀工場長を勤めるとともに、この時期の開発製品のほとんどを手がけた功労者である。
昭和6年、満州事変勃発。外国品の輸入が阻止されて輸出が伸張し、国内産業が大きく振興した。当社もこの時期に研究開発に重点を置き、次々と製品の開発に取り組み、活発に事業を展開した。
小雑賀工場では、新製品「クロルピクリン」「四塩化炭素」の工場増設とその後に続く新製品の研究開発・生産体制の確立を目指した。これらの中心的役割を果たしたのが、昭和2年入社の村井定男をはじめとする若手技術者たちであった。村井は入社8年目の若さで小雑賀工場長を勤めるとともに、この時期の開発製品のほとんどを手がけた功労者である。
若手技術者たち
昭和8年、あらたに子会社として、現海南市黒江に南海石油株式会社を設立。軍需用に石油精製が脚光を浴び、全国的に精製工場の建設ラッシュとなった時代である。
南海石油設立(現・南海市黒江地区)
昭和12年には、岐阜県大垣市の製薬会社、株式会社大垣製薬所と合併し、南海化学工業株式会社と改称。この合併により、関西・四国・東海地区に拠点を有する化学工業薬品・医薬品・農薬殺虫剤などを製造販売する総合化学メーカーが誕生したのである。
当時の南海化学工業の登録商標
第3章 試練
昭和13年~昭和28年
(1938年~1953年)
軍部の力はますます強大になり、経済に対する政府の統制は強まっていった。その影響は、原材料の調達や職員の徴兵など、南海化学にも大きな環境変化をもたらした。昭和14年、一貫製鉄を目指して熔鉱炉を建設中であった中山製鋼所との合併を選択することとなる。
統制経済の時代、鉄鋼業は国家にとって最優先の重要産業であった。そのプロセスのコークス炉で発生する副産物には、化学工業にとって貴重な原料になるものが豊富に存在するため、これらのを含めた事業の拡大に着目したのである。
石炭乾留の副産物処理により、軍需品である医薬・火薬・染料の原料や中間体を有利に製造し、軍に供給し、国策に貢献した。また、青岸工場で使用する硫化鉱の燃焼後の焼鉱すべてを製鉄原料として、製鉄事業へ供給できることもメリットがあった。
取締役社長は、中山製鋼所の創業者、中山悦治氏。小泉米蔵は、常務に迎えられた。ここに、南海化学は、中山製鋼所化学部となったのである。
取締役社長は、中山製鋼所の創業者、中山悦治氏。小泉米蔵は、常務に迎えられた。ここに、南海化学は、中山製鋼所化学部となったのである。
合併当時の小泉米蔵
昭和19年に入ると、戦況はますます悪化し、原料や維持補修機材の不足、人手不足、度重なる空襲などによって、生産活動は徐々に力を失っていった。コークス炉も全面停止に追い込まれた。
昭和20年7月の高知市空襲では、軍需品が主力の土佐化学工場が焼夷弾と爆弾により壊滅し、和歌山の2工場は直接の被害はなかったものの、生産に必要な電力が送電不能となり、休止した。
そして8月。ついに終戦を迎えた。中山製鋼所の全工場は休止した。
昭和20年7月の高知市空襲では、軍需品が主力の土佐化学工場が焼夷弾と爆弾により壊滅し、和歌山の2工場は直接の被害はなかったものの、生産に必要な電力が送電不能となり、休止した。
そして8月。ついに終戦を迎えた。中山製鋼所の全工場は休止した。
終戦直後の土佐工場(昭和20年)
終戦とともに解散した中山製鋼所は、社員を解雇し、生産設備の保安管理の職員・工員を再雇用した。そして、化学部の各工場では生産設備の維持、復旧に要する資機材の調達に苦労しながら、職員の給与を確保すべく生活必需品の石鹸等の生産も行った。
銃後を守った社員、戦地からの復員者や外地から引き揚げてきた社員・工員たちを中心に、逞しく一歩一歩生産の再開が進められた。
銃後を守った社員、戦地からの復員者や外地から引き揚げてきた社員・工員たちを中心に、逞しく一歩一歩生産の再開が進められた。
3工場の回顧録と工場重要日誌
昭和21年、財閥解体により中山製鋼所は木津川製線株式会社、尼崎製鈑株式会社、そして南海化学工業株式会社と、計4社に分社・設立。新生南海化学工業の取締役社長には、中山保之が就任した。
第二会社生産計画予定表
また、民主化のもとで昭和21年4月、中山製鋼所和歌山、土佐両化学工場に労働組合が結成され、分離後の昭和22年、南海化学の和歌山・土佐・大垣・岡崎の4工場に支部、和歌山に本部を置き「労働組合組織化通知」を中山保之社長へ提出した。
その後、組合は昭和28年、合化労連に和歌山・土佐ごとに加盟し、両組合での連合会を発足。
執行委員長は塩路英二であった。
その後、組合は昭和28年、合化労連に和歌山・土佐ごとに加盟し、両組合での連合会を発足。
執行委員長は塩路英二であった。
第4章 堅実
昭和29年~昭和47年
(1954年~1972年)
戦後復興をほぼ成し遂げた昭和29年頃から日本の景気は上昇した。32年中頃までの好況は「神武景気」と呼ばれ、さらに33年からは長期にわたる「岩戸景気」が続いた。
東京オリンピックや日本万国博覧会など、国際社会での存在感が高まる中、産業界も造船、鉄鋼、自動車、家電、合成繊維、化学肥料など多くの分野で世界の一、二位を争うにまで成長したのである。
その一方で、高度経済成長のひずみといわれた公害問題が多発。拡大・成長を追い求めていた企業も、それまでの反省をこめて環境問題への関心を高めていくことになる。
この時代、南海化学は生産性の向上とコストダウンに積極的に取り組んだ。
ソーダ製造法には隔膜法と水銀法があったが、隔膜法による苛性ソーダは品質上、需要増大していた化学繊維向けに適さないため、昭和37年、小雑賀工場は独自の水銀法に全面転換した。
東京オリンピックや日本万国博覧会など、国際社会での存在感が高まる中、産業界も造船、鉄鋼、自動車、家電、合成繊維、化学肥料など多くの分野で世界の一、二位を争うにまで成長したのである。
その一方で、高度経済成長のひずみといわれた公害問題が多発。拡大・成長を追い求めていた企業も、それまでの反省をこめて環境問題への関心を高めていくことになる。
この時代、南海化学は生産性の向上とコストダウンに積極的に取り組んだ。
ソーダ製造法には隔膜法と水銀法があったが、隔膜法による苛性ソーダは品質上、需要増大していた化学繊維向けに適さないため、昭和37年、小雑賀工場は独自の水銀法に全面転換した。
水銀電解工場完成(小雑賀工場)(昭和37年)
一方で、土佐工場は製紙業への供給が主体のため、隔膜法を続け、ネルソン電解槽をU字型からW型に改良。能力を増強しつつ生産を行った。そして、製紙業へ確実に苛性ソーダと晒粉・晒液を販売する手段として、自ら製紙業に参入したのである。
昭和31年、南海製紙株式会社を設立。本社を高知市の旭工場に置き、土佐市の高岡工場、三重県上野市の上野工場の3工場体制で生産販売を行った。当初の狙い通り、土佐工場と小雑賀工場の苛性ソーダと晒粉・晒液の販売に大きく寄与したのである。
昭和31年、南海製紙株式会社を設立。本社を高知市の旭工場に置き、土佐市の高岡工場、三重県上野市の上野工場の3工場体制で生産販売を行った。当初の狙い通り、土佐工場と小雑賀工場の苛性ソーダと晒粉・晒液の販売に大きく寄与したのである。
南海製紙の工場風景
第5章 克服
昭和48年~昭和57年
(1973年~1982年)
昭和48年、第4次中東戦争勃発に端を発したオイルショックはわが国の経済に甚大な影響をもたらした。電力消費型産業の一つであるソーダ業界も打撃が大きく、生き残りのため経営合理化や省エネルギーが必須の課題となった。
そうしたなか、昭和49年、中山保之社長が退任し、伴隆が新社長に就任した。厳しい経営環境にあって、伴社長をはじめとする新経営陣はさまざまな問題に積極的に取り組んだ。
環境問題では、小雑賀工場で水銀を工場外に排出しない水銀法電解設備クローズドシステムを実現。青岸工場や土佐工場でも排水処理設備の整備、大気汚染防止策などを講じ、環境対策を強化していった。
そうしたなか、昭和49年、中山保之社長が退任し、伴隆が新社長に就任した。厳しい経営環境にあって、伴社長をはじめとする新経営陣はさまざまな問題に積極的に取り組んだ。
環境問題では、小雑賀工場で水銀を工場外に排出しない水銀法電解設備クローズドシステムを実現。青岸工場や土佐工場でも排水処理設備の整備、大気汚染防止策などを講じ、環境対策を強化していった。
水素混燃ボイラー新設竣工式(土佐工場)
(昭和55年10月)
省エネ対策では、本社と各工場が一体となって取り組んだ。工場では省エネプロジェクトチームが結成され、無駄な照明の消灯、蒸気漏れの修理、設定温度の見直しなど初歩的なことから、省エネ型の設備導入や製造設備の改善を行い、大きな成果を挙げた。こうした取り組みの成果に対して、「資源エネルギー庁長官賞」を受賞したのである。
さらに、会社の価値を向上させるために増資や遊休不動産の売却を行うとともに、将来性のない事業からの撤退も決断したのである。
さらに、会社の価値を向上させるために増資や遊休不動産の売却を行うとともに、将来性のない事業からの撤退も決断したのである。
資源エネルギー庁長官賞の楯
第6章 改革
昭和58年~平成2年
(1983年~1990年)
昭和49年より研究が続けられてきた「イオン交換膜電解法への転換」(IM転換)が実を結び、昭和57年、土佐工場にIM電解槽が導入された。これは品質向上、省エネを実現する目的で導入されたもので、実際にその効果は大きく、電解電力原単位は約11%、濃縮設備の蒸気原単位は約87%削減できた。
また、製造監視作業なども合理化し、人件費の大幅削減につながった。
また、製造監視作業なども合理化し、人件費の大幅削減につながった。
小雑賀 IM法へ転換(昭和61年5月)
昭和59年には、小雑賀工場のIM転換が決定された。同年、新たに「中長期経営計画」が策定された。昭和60年からの6カ年計画であり、設備・販売・生産・人員・製品開発・コンピュータシステム・社員教育・労使問題を含む広範な内容を網羅したもので、現状否定により抜本的改革を実行する内容であった。
この中心的役割を担ったのが、中山製鋼所から出向し、取締役生産部長に就任した島田廉夫であった。社員は次々と発表される計画に積極的に取り組んだ。「活力あるニュー南海」を合言葉に、短期間で大改革を実行したのである。
昭和61年、大幅な組織改革が行われた。その狙いは、環境の変化や産業構造の変化に対応して経営基盤を確立するとともに、新技術、新分野への拡大、要員合理化、コストダウン、販売力の強化であった。
また、独自性のある化学メーカーとして南海化学が発展していくために、研究開発部門の強化を図った。小雑賀工場に研究開発室を、土佐工場に研究開発土佐分室を設置。さらに、研究開発部のもと、第一研究開発室、第二研究開発室のほか、開発プロジェクト室を設置して陣容を強化した。
設備面でも小雑賀工場に、最新の試験分析機器を有する研究総合センターを建設するなど、万全の研究開発体制を確立したのである。
この中心的役割を担ったのが、中山製鋼所から出向し、取締役生産部長に就任した島田廉夫であった。社員は次々と発表される計画に積極的に取り組んだ。「活力あるニュー南海」を合言葉に、短期間で大改革を実行したのである。
昭和61年、大幅な組織改革が行われた。その狙いは、環境の変化や産業構造の変化に対応して経営基盤を確立するとともに、新技術、新分野への拡大、要員合理化、コストダウン、販売力の強化であった。
また、独自性のある化学メーカーとして南海化学が発展していくために、研究開発部門の強化を図った。小雑賀工場に研究開発室を、土佐工場に研究開発土佐分室を設置。さらに、研究開発部のもと、第一研究開発室、第二研究開発室のほか、開発プロジェクト室を設置して陣容を強化した。
設備面でも小雑賀工場に、最新の試験分析機器を有する研究総合センターを建設するなど、万全の研究開発体制を確立したのである。
研究総合センター
第7章 挑戦
平成3年〜(1991年〜)
平成3年をピークに、国内景気は下降線をたどっていった。いわゆる「バブル崩壊」である。
そして、デフレ時代に入り、南海化学も従来のような経営を維持することは、困難な事態に陥った。
こうした状況の中、取締役社長に就任していた島田康夫は、21世紀に生き残れる企業を変身を目指し、抜本的な発想の転換により工場の製造方法や営業のあり方まですべてを変革していった。
そして、デフレ時代に入り、南海化学も従来のような経営を維持することは、困難な事態に陥った。
こうした状況の中、取締役社長に就任していた島田康夫は、21世紀に生き残れる企業を変身を目指し、抜本的な発想の転換により工場の製造方法や営業のあり方まですべてを変革していった。
平成8年からは、さらなる経営体質の強化を目指し、「レインボーブリッジ・プラン」に取り組んだ。
その内容は「全製品の採算を最重視するとともに、顧客の立場に立った品質の良い製品を提供するモノづくりの基本を徹底し、各事業所が採算性を追求して、21世紀へ生き残れる企業へ変身する」というものであった。
その内容は「全製品の採算を最重視するとともに、顧客の立場に立った品質の良い製品を提供するモノづくりの基本を徹底し、各事業所が採算性を追求して、21世紀へ生き残れる企業へ変身する」というものであった。
レインボーブリッジ・プラン ポスター
平成12年6月に池田和夫が社長に就任し、平成13年には、新5カ年計画「サンライズプラン」をスタートさせた。これは「新世紀を迎え、今までの“事業の選択と集中”をさらに一歩スピードを上げて変革進化させ、より輝くアクティブな成長企業へ躍進していく」ことを活動の骨子としたもので、「より強固な、より輝くアクティブな企業」を合言葉に、目標を設定。
未来に向けての戦略的な「営業拠点の拡大」「分社化」や「M&A」も展開している。
未来に向けての戦略的な「営業拠点の拡大」「分社化」や「M&A」も展開している。
サンライズ・プラン ポスター
過去にも増して精力的なアクションを推進することで、各部門はもとより南海化学グループとしても収益改善に大きな成果を得ることができたのである。
紀州綿ネルと土佐和紙という地場産業の市場ニーズとソーダ、晒粉そして硫酸製造技術というシーズをベースに、幾多の事業環境の変化や困難を乗り越え、適応し、生まれ育ってきた南海化学。
小泉米蔵をはじめとする先人たちの築いた100年の礎を再認識し、私たちは更なる飛躍を目指して、新たな時代の変化に適応し、地元及び顧客の皆様方の信頼を基盤に、企業価値を高め、アグレッシブに南海化学の未来をクリエイトしてまいります。